生きていることは幸せなのか
皆様、おはようございます、もしくはこんばんは。ルキナです。
考え過ぎ、というツッコミはなしでお願いします(笑)。
考え過ぎることがルキナの特性みたいなものです。では、さっそく行きましょう。
(目次作るほどではないですが、作ってみたいので作ってみました)
1.生きていることは幸せなのだろうか
まず、生きていることは幸せであるという考え方が一般的ではありますが、この考えは本当に正しいのでしょうか。もしくは、私たちは誰かによって、生きていることは幸せであると教えられた(思い込まされてきた)のでしょうか。
この記事では、生きていることが幸せなのかについて深堀していきます。ルキナの悪い癖で、誰かが決めた「生きていること=幸せ」という考え方には疑問を持ってしまいます(笑)。
2.誰もが1度は思う。生きていても楽しくない
皆さんはこのように感じたことはないでしょうか。
休日のある日、家で何もすることがない。友人たちと遊ぶ約束もなく、外出する予定もなかったため家にこもって、テレビをつけたり、YouTubeを見たり、ゲームをしたりと、「何かをしている」ということで時間を潰す。。。そして、飽きて何か違うことを探そうと思い始めても、どうしても何も見つからず時間だけが過ぎていく。
そして、自分自身に問いかける。「何で生きているのだろうか?」。ただ時間を過ごしているだけで、何も手に入らない。これでは、生きていることに意味を持たない。何のために生きているのだろうか。本当にこのままでいいのか。生きていることは幸せなのだろうか。。。
でも、感覚的には分かっているはずです。生きていることは幸せなはずなのだと。では、「生きていること=幸せ」を証明しようとするにはどうしたらいいのでしょうか。
3.幸せの証明
生きていることの反義語は死んでいること。
つまり、死んでいること≠幸せと認識できるなら、生きていることは幸せだと思っても良いのかもしれないと考えます。
仮に、死んでいることが幸せならこの世の中に「生きている状態」で存在する必要がないです。また、死んでいる状態では得られないものを得るために「生きている状態」になるとも言えるかもしれないとも考えました(考え過ぎ)。
つまり、死んでいたら得られないもの全てが"この世に存在する意義"≒"この世で生きる幸せの元"とも捉えることができるかもしれないです。
では、死んでいたら得られないものは何でしょうか。考えてみました。
4.死後の世界
死後の世界をイメージしてみます。※イメージです。
ある日、目を覚ますと、周りには何もなく(何もないのかすら分からない)、どこにいるのかもわからない。自分自身が存在していることしか認識できない。
恐らくそのような世界では、意識や思考、時間、知覚や自我、知識、コミュニケーション、体験や喜びや悲しみ、怒りといった感情すら持っていないでしょう。ただ存在するだけの、何も意味を持たない存在。。。眠っているのか、起きているのかもわからない。。。少々極端かもしれませんが、死後の世界とはこのような世界だと思います(ルキナは勝手にそう思いました)。
死後の世界をこのように想像したとき、死後の世界では幸せという概念すら存在しないのでは、と思いました。
つまり、死んでいること≠幸せ、を証明できたという事です(ルキナの中では)。
5.私たちは幸せになれるのか
生きていること=幸せ、を自分の中で証明できたから、この瞬間から幸せ!というわけにはいかないです。ちなみにですが、生きていることが幸せであるかどうかは、その人自身が感じるものであり、絶対的な真理は存在しないです(急に真面目な話)。
そう簡単に幸せを感じることはできないですが、この生きている世界で少しでも幸せを感じたいと思っているなら、何かアクションを起こしてみることです(例えば、こんなとんでもないブログを書いてみるとか)。
それでは考えてみたいくつかの具体的なアクションプランを書き出してみます。
- 死ぬ前に後悔することを理解する(「死ぬ瞬間の5つの後悔、著:ブロニー・ウェア」を読んでみる):死ぬ瞬間に後悔しない生き方は、人生の幸福度を上げてくれます。何かで見ましたが、自分の死について考えることで人生に対する幸福度が増すとのことです。
- 人に会う(まあいっかで先延ばしにしている人に会いに行く):人間結局人間関係です。確か、ハーバード大学の研究で人間の幸福度に一番影響を与えるのは人間関係だとか
- 何かをやめてみたり、何かを始めてみる:新しいことに挑戦する=自分をコントロールしていると同義です。自己コントロール感は人間の幸福度を上げてくれます。
総括
何でも証明すればいいというわけではない